食べる」とは「愛する」ことーハン・ガンの「菜食主義者」を読む
「食べる」という行為は、「生きる」という行為そのものだ。だとしたら、「食べたくない」というのは「生きたくない」と同じ事だ…とは単純に言えないことを、この本は教えてくれる。
注:この先、物語の核心に触れる内容が含まれます。未読の方は、ぜひ作品を読んでから戻ってきてください。
作者、ハン・ガンについて
彼女の本を読むのは、この本が初めてでした。読みながら、一人の女性として、まるで自分の身に起こっているような生々しさを味わったような気がします。作者の語り口には、否応もなく切り込んでくるような、性急さや横暴さは少しもありません。登場人物の女達は、粘り気のある真っ黒な膠(にかわ)のような、重い重い、切実な悩みを, 衣として身体に纏っています。ハン・ガンの表現は、精緻でありながら、濁りがなく、冬の終わりの雪解け水のようです。作品の題材は深刻なものなのに、押し付けがましさが無く、これからもっと彼女の他の著作を読みたいと、素直に思わされました。
「菜食主義者」あらすじ
主人公の女性、ヨンへは、ある日突然、夫に、「もう肉を食べない」と宣言します。最初は彼女の行動に戸惑いを覚えながらも、夫は渋々様子を見ていたのですが、思い通りにコントロールできない妻に、日に日に不満を募らせてゆきます。仕事の付き合いに妻を同伴したはいいけれど、彼女の常軌を逸した行動に、彼は恥をかかされたと感じ、怒りを募らせます。
しばらくのちに、ヨンへの家族と共にした食事の場は、一方的な家族会議に発展します。そして事態は一気に悲劇的な方向へと加速していきます。一方的に肉をヨンへの口元へ突きつける父親。挙げ句の果ては、家族全員の見ている前で、彼女を殴り倒します。ついにヨンへはナイフを手に取り、自分の手首を切ることで肉食拒否の意思の固さを見せつけます。
紆余曲折の末、ヨンへは精神病院に収容されます。彼女の姉、インへは定期的に妹を訪れます。ヨンへの衰退ぶりは著しく、医師も匙を投げていることを隠そうともしません。ある日、インへは妹が逆立ちをしているところを見ます。何時間もそうやっているという事実を知って驚愕するインへ。ヨンへは姉に告げます、淡々と。「私は木だ」と。
人は、食べなくても生きられるか
生物学的には、ノー。植物は、光を食べ、水を飲んで育ちます。他にも、肉や穀物といった有機物を食べなくても生きていけるバクテリアなどは, この地球に何兆億も存在しています。哺乳類の中にも、食べるには食べるけれど、人間のように毎日栄養を摂取しなくても平気な種が沢山います。けれど、人間として生まれた生命体は、水とほんの少しの果物と野菜を口にするだけの生活を,そういつまでも続けられないのが科学的事実です。タンパク質と脂質と糖質の欠如した状態が長く続くと、意識障害、骨粗鬆、筋肉萎縮が起こります。最終的には消化機器が内部から衰えて、胃酸が胃と腸の内壁を溶かし始め、死に至ります。
人間にとって食とは
社会的な人間である私たちにとって、「食べる」とはただ生態学的に生命を持続させる以上の行為です。私たちの多くは、一日に何度でも、バラエティーに富んだ、視覚的、味覚的、さらには触覚に訴える美味しい食物を味わいたいと渇望し、実際、それを実行します。私たちは、美食を、文明社会が提供してくれる最高の利便の一つだと考えているのです。ある文化では、起きている時間のほとんどが、材料の調達、食事の準備、実際に味わうこと、食事中に交わす刺激的な会話に費やされるほどです。
「食べる」という行為が、至高の快楽と結び付けられている場合、それは苦痛の真逆、という位置付けになるでしょう。けれど、たった一切れの油の乗った最高級のひれ肉が、言いようもないほどの苦痛を個人に引き起こすということも、ありうるのです。
食の自由と抑圧
深刻なトラウマを経験した人間が摂食障害になることと、倫理的または健康上、宗教上の理由で、ある人が食物を制限することとは、全く別のことです。拒食症がこの本のテーマだとして、お座なりの解析をすることも出来るけれど、私自身は、この本が私に「食とは何か」、「何を食べるか」、「どう食べるか」、「誰が他人の食習慣をコントロールするのか」などを真剣に問いかけているように思えました。食習慣を自分で決定できるというコンセプト自体が、人類の歴史の中でまだまだ新しい現象なのです。
「菜食主義者」のヨンへには、食べたいもの、食べたくないものを彼女自身が、彼女自身の体と心の欲求と必要に対して決めるという自由がありませんでした。父親による虐待という最初のトラウマと相まって、ヨンへの周りの人間はよってたかって彼女に食べることを強要したことが、二回目のトラウマになってしまいました。それが誠実な気持ちから生じたとしても。ここには尊厳死を巡る論議と共通した困難な矛盾があると思います。
拒食症のアポリア
I
食べないと死ぬ
私はあなたを愛している
だからあなたは死んではならない
私はあなたの食道にチューブを突っ込む
II
食べないと死ぬ
あなたは私に属している
あなたが死ぬと私には災難だ
だから私はあなたの鼻に粥を流し込む
これが現在でも多くの精神病院などで行われている最良の治療法というのですから、本当に恐ろしいことです。
韓国の食文化の歪(ひずみ)と情熱
私自身が在日韓国人であることも関係して、韓国人の食に関する凄まじいほどの情熱と執着を知っていると、この本はもっと興味深く読めます。毎日の韓国人の食卓が、どれほどの時間と労力をかけて供されているか。大根、ほうれん草、豆もやし、わらび、などの野菜のナムル(塩、ごま油、唐辛子粉、ニンニクなどを入れて手で捏ねる調理法のこと)から、何日もかけて旨みを出す干し鱈のスープ、熟れた梨を砂糖代わりに使う秘伝のタレに漬け込んだ骨付きのカルビ、ほの甘く発酵させた米のジュース、などなど。韓国全島で、冬の始まりには、女達が何十株もの白菜を陶器の甕に漬け込んで、土の中に掘ったキムチ用の穴に埋めます。工程を端折らないほどに、キムチは五味を満足させる複雑な風味を醸し出すのです。
伝統的な儒教の慣習を守っている一般の韓国の家庭では、月毎に催される先祖の供養の日(チェサ)はとても重要な集まりです。親戚総出で寄り集まって、非常な量の焼肉をこれまた洗面器にいっぱいの韓国レタス(サンチュ)に包んで頬張り、茹でたイカや、新鮮なマグロの刺身を甘辛い唐辛子酢味噌(チョジャン)につけながら、マッコリやソジュなどで流し込む。酒が入って顔を真っ赤にした親戚の叔父達が、気持ちよさそうに韓国の民謡を歌い、おもむろに立ち上がって踊り出すのを、幼い私はよく目にしました。
後に、私の家はクリスチャンになり、この月毎のチェサに参加するのをやめたのですが、それでも、私の母の料理を愛する人たちは、ひっきりなしに我が家を訪れ、そのたび母は台所に夜遅くまで立ち、肉と魚を下準備し、スープを作り、キムチを漬け、大根を刻み、豆もやしの髭をとっていました。私と姉も、両親の家で会食が予定される度に、買い出しに付き合わされました。弟が一緒に買い出しに来た記憶はついぞありません。女三人三様に自転車の前後に食材をのせ、片手でハンドルを握り、器用にバランスを取りながら、家に帰ったことを覚えています。今考えると、雨の日など、一体どうやってあれだけのモノを積みながら、倒れずに家まで帰りおおせたのか。思わず笑ってしまいます。
韓国食文化の根源は、「愛」と「生命力」
冒頭に、「食べる」ことは「生きる」ことだと書きました。さらにそれよりももっと大切なことがあります。「食べる」ことは「愛する」ことだし、「愛されている」ことを感じる時間でなくてはならない、ということです。そして、「自己愛」も忘れてはなりません。韓国の料理は作るのも大変だけれど、作る人間にも大いなるバイタリティーとクリエイターとしての満足感を与えます。食すなわち薬という観念はアジア各国に見られます。疲れている日でも、自分の長生きと健康のためだと思わばこそ、我が母は料理に専念したのかもしれません。少なくとも、そう思ってくれたとしたら、娘の私の気が晴れるのです。
「食べる」が「苦しむ」になる時
ヨンへの家庭に、愛はありません。毎日毎日、非常な労力をかけて作られたであろう豪勢な食事は、そのスプーン(韓国では箸よりもスプーンの方が食器としてはメイン)の一口一口が、彼女に毒を思わせるモノだったでしょう。値段の高い、栄養価の高い食材ほど、毒性は強かったかも知れない。私にとって、幼少期と青春時代に喜びをくれた韓国料理の味を思い出すたび、ヨンへの苦しみを慮って、涙が私の頬を伝いました。
ヨンへは物心ついた時から父親の暴力に晒され、母親も姉も、彼女を助けることは出来ませんでした。長い月日をかけて、彼女の内部で、血の滴る肉が、塩焼きにされた鯛の目玉が、山のように盛り上げられた茹でた豚足が、牡蠣のチヂミの匂いが、膨らみ、弾け、腫れを引き起こし、ひりひりと腸の内部を焦がしていったのでしょうか。ある日ついに、彼女の苦しみはもう耐えられないところまで溢れ上がったのでしょうか。「肉を食べない」と宣言することは、「もうこれ以上、愛されないこと、理解されないことに耐えられない」という、普段は寡黙で口数の少ないヨンへがとった、痛いほどの自己表現だったのではないでしょうか。
虐待の記憶
(inspired by the exhibition “Missing Project” at The Beaney House of Art & Knowledge、Canterbury, UK)
水彩・デジタルモノクローム化
2025 ©Chiye Kwon
狂気の再定義を提唱している?
ハン・ガンは、ヨンへは狂っていなかったと言いたかったのでは無いでしょうか。彼女の思考はただ出口を探したまでだ、と。普通の少女になれたかもしれない、ヨンへの幸せは、家父長制に基づいた「れっきとした正当な」暴力によって壊され、大人になっても精神的虐待と愛情放棄は結婚という名のもとで続きました。我々の多くは、誰かを精神異常とか精神病とかの範疇に入れるのがことの他得意です。しかし、「狂った」というのは、往々にして他者と自己の認識のずれに原因があると思います。他者がいてこそ、「こいつは狂った」と言えるのです。他者がいないところでは、「狂った」人間が出来ることは、口をあんぐりと開けて、鳥を指さして、声を立てて笑うことぐらいではないでしょうか。
では、ある者が「この人に狂わされた」と主張した場合はどうなるでしょう?このケースが社会的にスキャンダルを起こす可能性は前者よりも非常に高いでしょう。訴えた者が、侵され難い権力の持ち主でもない限り、「狂わせた」人間は、その可能性を暗に仄めかされただけで、激昂するでしょうう。社会で一目置かれる立場の人間であったヨンへの父親の場合などで分かるように。
「花」と「木」の持つ意味
ヨンへは、そして彼女の姉のインへも、感受性の強い、繊細な神経の持ち主だったことが、小説のそこここで示されています。インへは、美的感覚が求められる化粧品とファッションのビジネスで成功しているし、ヨンへは、彼女の体中に描かれた花々に一時的にしても大きな感動を覚え、花が彼女の体に消えずに残っている間、彼女の意識は覚醒していました。その経験が、彼女に「否・人間」として生きたいという欲望を呼び覚ましてしまったのは本当に皮肉だけれど。
私は、この本の最終章で、ヨンへが「私は木だ」と受容するくだりがとても好きです。なぜ、ある人間が「私はこれからは人間としてではなく、木として生きたい」と宣言したからといって、それを自殺だと決めつけることが出来るのか。彼女の精神は幼い頃から何度も何度も殺されてきました。それでも、彼女は生きてきたのです。ただ、彼女は悟っただけかも知れません。誰も、そう、これからは誰も、彼女に「このように生きろ」と命令することは出来ないと。
ヨンへよりも哀れなのはインへの方かも知れません。彼女は男性上位の社会の毒の中で、やむなく生き延びていかなければならないのです、まだ幼い息子のために。それでも、彼女にも、もう分かっていることでしょう。インへだって、本当は木や花になりたいのです。大きな樫の木になって足を枝のように広げて温かい太陽の光を感じ、渾々と湧き出る澄んだ地下水を飲んで、過去現在未来を超えて、生きとし生けるものたちと繋がりたいのです。宇宙そのものから大きな愛を受けて、自由に、密やかに、おおらかに、安心して。
けれどインへにはそれが出来ません。彼女は半分死んで、半分生きている人生を選びます。彼女の愛する息子のために。けれど息子は、彼女がどんな思いで、どれだけの犠牲を払って、その生き方を選んだのか、理解する時が来るでしょうか。精神病院で死んだ叔母・ヨンへの噂を、家族の誰かがくぐもった声でする時、彼はほんの一瞬でも興味を持つでしょうか。そんな日は多分来ないでしょう。なぜなら、彼は木の言葉を知らないから。
わたしは木になりたい
水彩・デジタルモノクローム化
2025 © Chiye Kwon
このブログの読者へ。あなたにとって「食べる」とはどんな意味を持つのでしょう?単なる生命維持の行為か、それとも深い喜びや愛の表現でしょうか。ハン・ガンの「菜食主義者」は、「食べる」という行為の奥深さを、そしてそれが人間性を拒否するために使う道具にされた時に何が起こるのかを、鮮烈に描いているように私は思います。優れた本には、読者に何通りもの感じ方を促す力がありますので、あなたの読後の感想は、私のものと全く違うかも知れませんね。もし良かったら感想、気付きなど、コメント欄にお寄せください。読んで下さって、ありがとうございました。